昭和50年10月1日 月次祭
                             佐田恵介


限りない、神様の、御恩を、悟らしてもらい。かぎりない、喜びに、ひたらしてもらい。かぎりない、いくら頂いてもいただいても、尽きることがない。減ることがないといわれる、おかげを、頂きたい。天地の親神様も、そういうおかげを、いただいてくれよというのが、天地の親神様の、おー、願い、なのでございます。ですから、どうしても、おおー、天地の、親神様の、?、尽きることのない、限りのない、大きい、広大、無辺な、えー、おと?。同時にあたくしどもに下されてあるところの、御恩恵というものを、おー、悟らしてもらわなければ、つきぬ、喜び、は、わいてこんのでございます。えー、論理の、上から、んー、お説明をいたしますと、天地金乃神様の、おかげというものは、信心のない者にもおかげはやってあるというように、尽きぬ、うー、広大な、おかげを、おやー、おかげの中に、あたくしどもは、浸っておるのでございますけれども、それを、おかげとおかげっ と、おー、実感しきらない。その実感が、そのまま、限りない喜びにつながるのですから。しかもその限りない喜びが、又、限りない、おかげにもつながるのですから、どーでもここわからにゃいけんの。 ねえ、お願いをしておかげを頂くというところからはじまって、つきぬ、おかげの頂けれる 信心。それは、尽きぬ、御恩恵、の中にある、広大無辺な、おかげを、おかげと、悟らしてもらう。ねえ、それを、実感する。心で、肌で。ね、それを、感じさしてもらうところから、どこから、湧いてくるかわからん、神恩報謝の心も湧いてくるし、ね、どこから湧いてくるかわからない、これは、信心を頂く者、ん、だけ許される、信心の、喜び。いわゆる、冥加の世界が、広がってくる。  (咳払い)妙賀、栄える、富貴繁盛。いつかこんな御理解を頂いたことがあるです。妙賀というものは、ああー、野菜のミョウガ?すね。あれは、?とー、なんてます。ね、喜びの、妙賀。わたくしどもと神様とが、こう、抱きみょうがという、うー、紋がありますね。みょうがをこんなふうにして、した、紋が抱きみょうがというが、その、抱きみょうがの、いうならば、合楽のおかげであります。神様とわたくしどもがこうやって、抱き合うようにして、頂くところの、喜びなんです、ね。?ー、そういう喜びに、ひたらしていただくところに、わいてくる、いわば、真に有難いという心は、そういう心ではないか?。お願いをしておってこういうおかげを頂いた。これは真に有難いとは思われない。ねえ。どーでも一つ、つきぬ、神様の、御深慮、御神徳。それが、御恩恵と、なって、あらわれる。お恵みとなってあらわれる。その、御恩恵を御恩恵と悟らせていただくところから、尽きぬ、喜びに、ひたらせていただくことができる。その、尽きぬ喜びに、尽きぬ、限りない、ねえ、無尽蔵、の、おかげが、約束される。そういう、世界が、あたくしゃ、金光大神が、天地金乃神様から、ご依頼を受けられて取次助けてやってくれと言う、取次、を、受けて助かるというのは、そういうことだと、思うのです。 先ほど、んんー、えー、あたくしの下から二番目の、幹三郎、(水を飲まれる)が、んんんー、?、お話を、いたしておりますたなかに、なかなかいいことをいっておりましたですねえ。いかに親先生が改まれといわれてもです、自分に、自覚がない限り改められないっていってるんです。??くしゃそれ聞きながら、すばらしいと思ったです。これはね、本気で、改まろうと思う、わなければでけることじゃないです。そしてです、そこに、自覚のない改まりというものが、ね、えー、どんなものかということを、思う時に、まず、その、自覚と。いうならば、天地金乃神様のおかげを受けておるというその、自覚がまず、大事。金光教の信者であるという自覚が、ある信者がはたしてどれだけあるか。合楽にごしんを頂いて合楽の信奉者であるということの自覚。その自覚ができるところからです。とても、合楽の、おひろまの、比礼発展のことは、祈らなければおられないが、それに、もとるようなことは、ゆいも、しも、できんのです。 はー、あちらは、合楽の御信者さんげなと、たとえば、?、ね、天理教じゃないけーども、うしろに、合楽、教会といような、はっぴでも着とるような、気持ちでね、?、天理教のあのー、ひのきしんなんかにでられる時に、??、はっぴをみんな着られます、偉い人もなからなければ、あー、貧しい人もない。みんな、あれー、はっぴ一色で、御用なんかなさっておられるということ。ありゃとても尊いことだと思う、ね。わたしゃ、天理教の信者でございますという、自覚がなからなければ着られない。ですから、いつも後ろからでも前からでも見られておるのですから、やはり、い?が、御道でいうならば、金光様の御信者らしい、信心。いうならば、生活が、でけておらなければ、でけない。はたして、そ?自覚にたっておる人がどのくらいあるだろうか。 同時にです、ね、今日あたくしがみなさんに聞いていただいておりますところの、限りない、神恩、報謝が、又は、その、内容もっての生活が、でけるような、おかげを頂くためには、まずは、話を聞いて、それを知ったというのではなくて、ねえ、天地の親神様のお、限りない、御神恩のなかにあるんだということの、自覚がでけたところから、限りない、喜びが 約束される。 ??さんがそ??だん?ん的にはよく、感じられる、訳ですねえ。  なにか、はー、 とに、神様に喜んでいただくよ?わたくしになりたい。という、思い。又は、願いをした途端に、これに感動が湧いてくる?な事がありますでしょ。ねえ、あれはもう、神様が、その、喜びを送ってくださってあ。その願いが、いわば、すばらしいからであります、ねえ。そういう、いうならば、自覚にたっての、信心になりませんと、限りない、喜び。尽きぬ、おかげということは、で?、ございません。ねえ、そこでです。そういう、う、自覚を、得させてもらうということ。これは、なろうたから教えたからというて、でけることではない。天地の親神様の、言うならば、御働きというものを、つまびらかにお話に聞かせていただいても、いうなら、こうやって、おいかしのおかげをいただいておる。目が見えておるじゃないか、耳が聞こえておるじゃないか。このお水一杯も、?うなら、手が、足が動いておることも、天地の親神様の、お許しを頂かなければねえ、うごかんのだ、見えんのだということがわかるんです、話を聞けば。けれども、自覚がなくてそれを、教えられたところで、ありがたいというものになって、つながってこないので。?え、確かにそうだけれど。  そこで、わたくしは、いよいよ、自分というものを、見極めていかなければならんと、そういう、精進が、いるのでございます。ねえ、さまざまな、問題が、あります。様々な難儀がございます。そこでその難儀のたびにで、どうして私はこういう難儀なめにあわなければならんのであろうかというのではなくて、ねえ、(水を飲まれる)その難儀に、ふさわしい自分だ。つりおうた自分だと、いうことになってまいりますと、その難儀も、むげにはでけません。   ?ぇ。そこから、自分というものを本気で、見極める。そして、いうなら、くずの子我の自覚が、でけてくるんです。 わたくしゃ、この自覚がね、だいせ?。親鸞上人様なんかはもうにっぽん一の、大悪人だと、自覚された。だから、それこそ、もう誰でもが、味わう事のでけない信心の喜びにひかられて、ね、その、喜びが、沢山の人を、さいどなさるところの、働きになってあらわれてきた。  ねぇ。  あたしゃーまーだ人に悪い事し??ことなかと。?、人を殺した事も傷つけた事もない。どろぼ??したことない。あ?しゃ、まちごうたことはけしてせんから。と、いうておるあいだは、なかなか真に、信心の喜びには、触れる事は、遠いのです。ね、そこで、なら自分というものを、見極めさしていただくという、そういうさまざまなチャンスが与えられます。そういう時にです、いよいよ、自分の心に顕微鏡をあてるような思いでいよいよ教えを頂いて、教えの鏡を前ん立ててみると、お粗末である事がご無礼である自分である、事が、わかってくる自覚が、生まれてくる。そこに、高橋正雄先生じゃないですけれども、ね、食べる事の資格のないわたくし、着る資格のないわたくしという事にまでなってくるんです。こ?わたくしもそうでした。わたくしのはちょっと違ってましたけれどね。親に孝行したいばっかりに、ね、外地にまで働きにで、で、いわば出稼ぎに行った。ねぇ、はー、この調子でいくならば、と、思うのもつかの間。いうならば、裸一貫同様で、家族のものが引き上げて帰ってこなければならない。うちには年老いた、両親が、あー、あの、おー、戦時下?、?ー、戦後の、おー、逼迫し?、中で、??、難儀をしておるのを見てからです。もう、目もあてらん ないなと自分で思うた。親孝行したいばっかりに、北支、さんがいまでも出らせて頂いたのに、このありさまは何事ぞということです。そして、親に腹一杯の御飯も食べさせる事がでけない。子供に、いうならば、おかり、おかゆも啜りかねれるような。あの時分丁度、わたくしの、家内も、愛子をおなかに入れておりました。かえってき??きに。そいから、妹が、あの、泰子を、おなかに入れておりました。?ー、ですから、母は、その、おーん、妊産婦にすこしでも栄養をつけねばならんというので、自分は、たとえばこのくらいなおじゅうやのようなのを、一椀ずつが、こう、つぎわたえてすから。自分はその食を減らしといて、その、?、たべさせる、というように、しておりました。もー、生まれました子供は、二人とも、よん、まあ、いうならば、し、栄養失調に、陥らん、寸前のような、状態でした。あたくしゃ、あまりにもかわいそで、??、神様そのことお願いさして頂きましたら、こんなきれいなね、?りこそ座り大根のようなきれいな、あの、あか、赤ん坊頂きました。こんなに丸々とたとえばこえておっても、ね、しょうごえん大根の、いうなら中にすがほげとったらなんにもならん。バチバチこえとっても中に病気があっちゃつまらんぞと。なるこぞ、ひが、ひぼ、日干しのごとくやせてはおるけれども、中身がしっかりしとるから心配はいらんと神様がおっしゃった?。ねぇ、お金があるわけじゃないで??。と、特別な、うちちを与える。つくっぢちを与えるわけでもないのですけれども、そういうような、あー、状態の、中にです、ね、いうならば、かわいい子供に、いわば、親ここしたいばっかりで一生懸命の、自分の身を犠牲にしてでもと思うた、親に、こうこができないということはもう、目も当てられないと思うた。そこから、本気での、信心の、目覚めと申します。(水を飲まれる) 今までの信心の、(マイクを動かされる)??ごうておった事にあっ、改めて、気付かしてもらった。(咳)気付けば気付くだけ、どゆことになってきかたというと、着る資格もない、食べる資格もないわたくしだと(笑いながら)いうことになるんで。おかげで、(痰が絡まれる?)ねぇ、何年間、の間を、かえ、それでも食べんというわけにはいけませんから、一食の、かい、えー、かいしょくを、一椀ずつ、いただく事にいたしました。それももう、頂く資格のないわたしが頂いておるんです。あいす、神様、あいすいませんという事で。着る資格のないわたくしが着とるのです。ですから、夏も冬も通して、夏服一着ですごすというような、事になって、まいりました。ね、これは、いうならば、いよいよ、自分の、ね、つまらなさというか、ふがい、ふがいなさというか、いよる、屑の子の自覚に立たせていただいた所から、そういう事に、なって、まいりました。  ねぇ、そのころからで?。わたくしが今まで気がつかなかった。今まで知らなかった。こういう信心に喜びがあるとはわからないほどしの元気な心と喜びが湧いてきた。それは、ね、頂いたから、もら、もろうたから、わく、喜びではない。そういう自覚にたって信心の、しぎょうが一生懸命でけておるという事そのこと自体がありがたがった。とう?、えんでの久保山せんせが、(咳払い?)ついてまわっておられてあたしがありがたいありがたいとゆて感涙にむせんでおると、(息を呑まれる)大坪さん、(笑いながら、)ほんなこてそげんありがたかっですかちいよんなさった。しらごっで、こげん涙が出るもんかと、思うくらいでし。そりこそ、ありがた涙にくれさしてもらうような、おがげ。ね、そういうありがたいというものがです、段々、つむりつもっていっておるうちに、人が助かるようになってきた。  ねぇ、いうならば、限りない、神様のお、  おん徳というか、御神慮というか。ね、その御恩恵が、いうならまあ、このずーをもって、この、わからしていただくようになっってきた。??。そこから、どこからわいてくるかわからない、喜びに、浸らしていただく事がでけるようになった。 ??。あたくしゃこの、限りない喜びに浸らせていただくという、それ、それがね、そのまま、限りないおかげにつながる、ということをです、お互いが、?とつ、ねぇ、わかってくださり、信じてくださっ て、ねぇ、そういう、限りないおかげ、の頂ける信心を、いよいよもって、めざさせて、頂かなければ、ならないと思います。  (鼻を啜られる)?、それにはまず、その、今日幹三郎が申しておりましたように、自覚が、いるんです。ねぇ。ですから、その、自覚をうるために、いよいよ、自分自身がわかるという事に、ならなければなりません。  (水を飲まれる。) 昨日、あぁー、?、三十、??、月末の、御礼会が、???ございました。御礼会の、おー、一人一人発表され?、ます中に、あとぅ、一番下の、?ー、栄四郎が、?発表いたしておりました。んー。(咳払い?)僕は、(録音切れ)んに、目覚ましのおかげを頂かせてくださいというて、強い祈りをささげてから休ませて頂くけれども、神様が、おこして下さらない。いや、神様はおこす力はもってござらんのかと、思う。ねぇ、お願い?ーぞ明日親先生のお供ができます。三時半におこして下さいとてお願い??。神様がおこしなさらん。神様がおこしき?なさん。と、まで、思うのですけれども、いやいや、これはまーだ自分の祈りが足りんのだとぉ、ね、ほんとに神様がおこしてくださる、働きの頂ける所までは、いうならば、人からおこされたからどんが、まあ、朝おきはしないと、?、心に決めたというので。ねぇ、又ね、願った事を神様が聞いてくださらないほど、たとえば取次ぎ者として、こんな哀れな、ぞんざいはないです。信者の、さまざまな難儀なお取次ぎさせて頂いて、取次ぎ者のいうこと神様が聞いてくださらんほど、いわば、?、ほんとに、情けない、あたしゃ取次ぎ者はないと思うです。ねぇ、わたしの?、願った事は、神様が聞いてくださるという確信をもって、神様からおこされるだけの、自分にならして頂けれる。自分が願えば、筋を立てて道を立てて願えば、神様が聞いてくださるという確信を、もたせていただくような取次ぎ者にならなければ、親先生は絶対、喜びなさらん(すこし笑いながら)と僕は信ずるというので。?たそれ聞きながらね、(笑い)やはりプロはプロがたあるなと思いましたよ。ほんとに、いうこたいらんなー、?ー、と、あたしゃ思いました。ね、今日の、幹三郎(みきさぶろ)の話を聞かせて頂きよってもそれは思います。このひたぁ又性格は違いますから、それこそ、泣く泣くでも、やっぱりあたしの所に出てくるんです。ねぇ、も、出てきた途端に(笑いながら)もう、眠りた?るごと、眠りよるです。もう阻止てこ?で一時間の御祈念??楽しみちごたるふうで、も、てんで、ここではぐうぐう?ち寝とるちいうな感じですけれども、あたくしゃその姿に、こらこらというて、おこす元気はとてもありません。それでよいの、のだと思うんです。ねぇ、そこでわたくしは、思うのにです、幹三郎が今日いっとりますように、自覚に立たなければ改まりはできないという事。けれどもね、んなら、そういう、たとえば、高度な、あしん、というか、そういう、る、理屈の上での、言うならば、改まりといったような事ではなくてね、おやぜんせいが、ああおおせられるのだから、教祖様はこうと教えてくださるのだから、わからんのだけれども、自覚はでけてはいないのだけれども、それを守らせてもらい行じさせて頂いておるうちにです、信心の、又、喜びが、開けてくるという手も、あるのです。ねぇ、だか、そこのところがあいまって、ねえ、これはまあいうならば、あたくしの幹三郎の話も栄四郎の話も、そらまあ贅沢な話です。いわば、食べる事に事欠くわけではないし、ねえ、誰が文句いうことでもないのですから。まあそういう横着なこ、まあいうならば、こと、あとで、5年先10年先に、ほんとに、横着なこ?いうておったと気がつくです。時代がくるでしょう。けれども今はあれでよいと?たしゃ思うた。ほんとなものー、そしてその、根本に、ね、これは、おやぜんせいが、喜んでいただく信心とはという事がいつも、これは、学院の時代から、こんにちまで、寝てもあけても、そのことだけは考え続けておるという。   ねぇ。  昨日の、(咳払い)敬親会、いー、あのー、ごお、よ、余興がありましたあとに、?ー、浪花節?んたちが、?、いっぱい、?くろぶりに、いっこんさし上げました時に、あのー、前に、かたった、方は、あの人たち、有名な、なにわぶっさんでしたけど、もー、おー、芸能生活50年というのですから、たいてい、おしてせるがしです、年はね。その方がいっておりましたが、わたくしは、あの、きょうやまっ、こえ、えー、こえんという師匠につきました。きょうやまこえんという人は、夫婦ともそりゃあー、ねつ、熱烈な金光様の御信者であった。ねぇ、そりゃあもう、ほんっとにその、おー、いよいよのどがつぶれてしまって、明日はだいかいであり、明日は、いうならあの、おー、番付、なにわぶっさんたの、番付ができるというほどしの審査の、いわば、あー、はっ、があるというのにのどがどうにもできなかった時に、奥さんが金光様のお取次ぎを頂いて、そしてだん、じょうに立たれたとっから?、今までかって自分でも、こんな声が出るとは思わなかったようなね、不思議な不思議な、よい声が出て、おかげを頂いたという、話をあたく??ん目の当たりに見たり聞いたりしてきて、金光様のありがたい事がわかっているという話をしておりました。ところがこの人は、もうひじょーにその、女に弱い方?。そしていつも失恋され。?、いつも女ん逃げられるという、方だったそう?。(鼻を啜られる?)ところがね、この、?の奥さんがいよんなさった。は?、又逃げられなさったばいの。ばってんかうちのしじんは、?あその、女に逃げられるたんびんに、その、浪花節が素晴らしくなるそうです。ね、難儀が、(笑いながら)なんかに、ぶつかるとで、それこそ、失恋の悲しみを、どこ?持っていくかというとね、その、自分の好きでたまらない命のように大事にしっておる浪花節に?っていくわけです。だからも、しゅら真剣な、そりこそ、失恋の悲しみを、芸のほうへもっていくのですから、??、そういう(笑いながら)失恋したたんべんに、その、あー、芸が、進んだという、話を、お、きの、?、しておりました。それ聞いてから、んとに素晴らしいことだなあと思うた。そこで、んならあたくしどもがです、ね、信心というものが、たとえば、んなら栄四郎の言葉をかりるとで、?ー、たとえば今はあんな信心で、だけれども、実際思うておる事は、どういう信心にならせて頂くことが親ぜんせが喜んでくださる事かということをその根底に、置いておるという事がで?、どういう難儀に直面しても、難儀に直面すれば直面するほど、やはり、その、親ぜんせいに向かうより以外はないのであ?神様に向かうより以外はないのですから、必ず、そのつどに、信心が、進展していくというわけです。ねぇ、ですから、今日?たくしが皆さんに聞いて頂きますように、それこそ限りない、神様の御恩徳の中に生かされておるこら、事実はね、もう、否定しようにも否定のしようがない、程なのです。わか?。けえども実感として、そのおかげをおかげとして、喜べない所に、あたくしどもの信心、いうならば、?そく、が感じられます。そこでです、それを、自分の限りない喜びがわいてくる所まで、その、神様の御恩徳をわからしていただく事の為に、一つ、自覚に立てということを、きょは聞いていただいた。ね、いうならば、屑の子の自覚にたて。それには自分?見る事見る事。自分を見る事という事に、焦点を置くときに、着る資格もない食べる資格もないというところまで、自分というものはぎりぎり、掘り下げられていくのでございますから、?んに、こげなよか着物着せて頂いと?とても、ね、これだけの着物着せていただく値打ちもないものが着ておると思うときに、この着物に対して、お礼がいえるのです。とても、こんな食べ物が食べられる?、資格もないものが、食べさせていただいておるのですから、おし頂かなければおられんのです。ねぇ、その、自覚に立つ所からで?、ね、信心の、尽きぬ喜びが沸いてくる。その、尽きぬ喜びがそのまま、尽きぬおかげにつながってゆくような、おかげを、頂いて頂きたいと、思います。いよいよ、今月はもう、おー、だいさいず?、ですね。16んちの、御大祭には、ね、又は、あー、?じゅうさんちですか、御本部参拝、が、?、引き続いて、えー、いうならば、御礼月(おんれいづき)と昔からいわれておる、?の御礼月(おんれいづき)にはいったわけです。そこでね、そういう自覚にたって、おかげの自覚に立つ時にです、どうかしなければ、おられないものが、御本部参拝になり、いわば、御大祭になり。さー、今度の御大祭には、幾人の人に、示現活動をさせていただこうかというような願いが、もたれる事になるのです。ね、神様へ、いうならば、喜んでいただく信心とは、これは、栄四郎ならすとも、皆さんもそれぞれに、お考えになっておることだと思いますけれども、ね、そこの所をです、今、合楽で、いわば、焦点を絞ると、必ず、合楽示現活動ということになって、まいります。神様とあたくしどもが、いうならば抱きおうて、ね、抱き茗荷の喜びに浸らしていただこう。いうならば、16んちの御大祭が、そういう神とが氏子が喜び合えるその、喜びの坩堝にかしてしまうほどしの、あたくしゃ、おかげを頂きたいと、ねごうております。皆さんもやはり、それを願いと、なさらなければならんと思います、どうぞ。